工房案内

商号 株式会社雅山
代表者 長谷川雅也
創業 明治35年(1902年)
設立 昭和63年(1988年)
本社・工場 山形県山形市銅町2丁目1-21 〒990-0051
鋳造方法 ガス型鋳造法・ロストワックス鋳造法・イタリア鋳造法・シェル型鋳造法・自硬性鋳造法
融解材料 鉄・ブロンズ・アルミニウム・白銅
主な鋳造品目 花瓶・鉄瓶・香炉・彫刻・モニュメント・建築金物
企業の特徴 企画から製造、販売までの一貫生産体制・オーダーメイド品販売・デザイナーとのコラボ

 

鋳物の歴史

人類の文化は石器時代、青銅時代、鉄器時代と云うような長い年月を通し、目覚ましい移り変わり、従ってこの金属の発達を助長してきたところ鋳金の技術は、最も密接な関係を持たれる。人類は日常の生活に必要な食器や武器に、石器、土器などを用いていたが今から六、七千年前に初めて金属を用いていた。最初に使われた金属は青銅。銅と錫の鉱石は多く同じ場所に産し、比較的溶けやすいので、これを作ることが容易にできたと思われる。この青銅は鋳物が作り易いばかりでなく、美しい色と丈夫な性質を持っているので太古における青銅鋳物は装飾品や武器、鎧、など素晴らしい発達を遂げたものである。遺跡に残る女王の腕輪や鋳像宮殿の装飾に用いた青銅鋳物は、今日もその豪華を偲ばれている。また我が国においても飛鳥、奈良朝時代、以来は仏像の造像が盛んに行われ薬師寺の薬師三尊、東大寺の大仏像は当時の優れた鋳金技術を物語るに余りにも有名である。後世鋳物師は、全国各地に派遣され、それぞれのライフスタイルに伴って工芸品が多く作られる様になり、江戸時代以前の鋳物師は、仏像、仏具、それぞれの方法にわかれて鋳物に関する一切の仕事を担当した。それから明治以後西洋技術が取り入れられて、新しい機械鋳物と工芸鋳物と二つの方法に分かれ新たなる機運となって現代に至っている。

山形鋳物の歴史

山形の鋳物は平安時代康平年間に源頼義が、奥羽の安倍貞任並に宗任征伐の命を受け、山形地方に転戦した時従軍した一鋳物師が馬見ヶ崎河原の砂と千歳山の土質が非常に鋳物に適した事を発見して、その鋳物師が山形に留まって、鋳物業を営んだことから始まったと伝えられている。昔の戦は刀か槍を使って戦争したので自分の軍勢には必ず鋳物師を抱えており、吉野朝時代に於いて光明院とか光厳院の特権に属する免許証をもらって鋳物業を営んだことが伺われる。このことは寛政四年十月付で山形銅町の佐藤金十郎と言う人に伝わり、鋳物職座法の免許状の掟と称する文章や、又弘化二年四月付で同じ銅町の鋳物師大西忠兵衛にあてた蟻蛾御参入仰付の執達状が今も尚所々虫に喰われて穴があいて古びた書類となっている。免許状を受けた全国の鋳物業者は興国三年以来所々移動し業務に従事したものと思われ、山形の同業者もこのような伝説による。

降って延文元年八月斬波兼頼が奥羽大崎から山形に入部となって新たに霞ヶ城を建設に当たって鋳物関係のものは、全部鍛冶町の鋳物師九名に御用命申し付けて調達し当時の鍛冶町は国分寺の脇にあったとのことで慶長年間最上義光時代に市区改正の折り銅町と改名し山形の北方現在の地域に変更され、この時に於いて銅町の業者もその数を増し明和八年には都合三十六戸となりその頃から銅町の鋳物は著しく発展の緒に着いたと言い伝わる。しかし当時はまだ梵鐘のような大きなものは地元では鋳造できなかったと言うことは、慶長十一年義光が専称寺に寄進した梵鐘が鋳造されたのは丁度寛文十年に谷地の長薬寺の鐘を又同十一年には山形の長源寺の鐘を鋳造したのが始まりで、降って安永年間以後になって銅町の梵鐘は鋳出の抱状を得るまでに発展し、この頃から、銅町の鋳工技術も斬次進歩し神具、仏具を始め、鍋、釜湯沸かし等の日用品を製作して、霊峰出羽三山神社の参拝者を対象に販売したことで益々銅町は瞬く間に産地的形態をととのえられ、又原料は出雲の国の砂鉄から製した石見鉄を移入又銅も県内産を使用したと言い伝えられている。「市商工課文献参考」

明治四十三年山形県知事馬淵鋭太郎氏が銅町鋳物が他県より優秀を認め自ら陣頭に立って鋳金工芸の研究に取り組み、東京の美術学校から田島、小林、両先生を又高岡から関清一郎先生を招聘し毎年講習会を開催し、又夜分図案の講習を(七、八十人)十年間受講、すばらしい発達を遂げ、初めて山形鋳物の基礎が築かれた。其の折、山形銅鉄器信用販売購買組合設立大正七年初代組合長、長谷川長吉氏(先代)就任販路を組合長自ら自転車にて活躍、(見本持参)東北六県及び関東以北に拡げ製品紹介、銅町の鋳物は著しく発展の緒に付き現代に至る。

四代目当主の思い

雅山、工房として百年以上の歴史を振り返っていく時、先代達の築き上げた歴史はまさに「挑戦」の一言につきる。それについて詳しく紹介していく。
創業者の「長谷川忠三郎」、山形鋳物伝統の焼型鋳造法を極め、宮城県にある「金華山」の燈籠や、山形県の観光名所として有名な「山寺」の燈籠、香川県「金毘羅山」の燈籠を手がけ独立に至った。他にも伝統技法を巧みに操り置物、火鉢、花瓶などを製作しその後の雅山の礎を築いた。
二代目、社名にもなっている「長谷川雅山」は、その技を見込まれて当家に養子に入った筋金入りの職人だ。類稀なる技術と、発達した技法で「文展」「帝展」「日展」に出品。数多くの受賞も獲得している。先代と同じく焼型技法で鉄瓶や梵鐘、工芸品を製作。それに加え、先代がやったことのない、一からの製作。つまり原型から仙像、銅像を造りあげ新たな歴史を加えたのであった。
三代目、「恵久」同じく焼型技法からスタートした。しかし三代目は量産化し、なるべく多くのお客様の手に届くことを一番に考えた。ガス型、シェル型鋳造法に着目し量産化への道を一気に広げていった。また、「日展」にも出品し審査員三回を任命され日展評議委員まで上り詰めた。代表技法である「朧銀」の技法は彼の代名詞となった。また、ロストワックスの技法にも着目し設備の導入も果たした。
そして四代目、「長谷川雅則」私の代である。美術大学で彫刻の専門教育を受け、イタリアに渡った。イタリア鋳造法を学び帰国。当時のバブル経済に向け、モニュメント、銅像、胸像製作と息つく暇なく製作に明け暮れた。その頃、父の三代目が他界、バブルがはじけ、リーマンショック、原材料高と取り巻く状況は逆風ばかり。しかし、先代達の築き上げた精神、技法は無くなることはない。当工房の貴重な財産となっていることは間違いない。自分個人の作家活動と工房経営を両立させ、山形鋳物がこれまで手をつけてこなかったマーケティングに力を入れ、市場が求める商品を開発し、そして販売ルートに乗せる。工房のこれまで培ってきた技法を商品としてのパッケージに詰め込み全国、そして世界に向けて発信していく。技法とデザイン。車の両輪のように、どちらに偏ることなく、バランスをとりながら前へ進んで行く。変革、そして挑戦。これまでの技法を生かし、新たな技法を前へ前へ歩みつずける。私は四代目として、挑戦者として山形から発信していく。